久米島は日本の紬の発祥の地と言われているのをご存知でしょうか?
久米島の風土や歴史の中で育まれた美しい久米島紬は、今も織り子さんによって手作業で作られています。
今年は久米島紬が国の無形文化財に指定されて20周年になります。
2月は2月6日がツムギの日ということもあり、その前後に久米島紬を広く周知するイベントが多く行われました。
久米島紬は久米島島民にとって身近な存在ですが、その歴史については深く知らない方もいらっしゃると思います。
そんな中、久米島紬について知ってもらおうと久米島観光協会による島民向けの久米島紬の歴史背景ツアーが行われました。
久米島に現存する名所を巡りながら、歴史の中で久米島紬がどのように残されてきたのかを学べました。
今回は、久米島紬の歴史について久米島紬に関わる久米島のスポットと共にご紹介します。
久米島紬ができるまで
久米島紬は久米島で作られている伝統的な絹織物です。
久米島紬の最大の特徴は、その手間暇かけた製造工程にあります。
その製造工程についてはユイマール館で映像や展示で学ぶことができます。
1.糸づくり
久米島紬は養蚕から始めます。
島内に自生している桑の葉を取り、蚕に餌を与え育て繭造りをさせます。
繭ができたら精錬し、糸を紡ぐ工程が行われます。
2. 意匠設計
久米島紬は図案も職人が自分で考えます。
図案は御絵図帳、絣図案集及びこれまで製作した反物等を参考にして作ります。
図案通りに糸に糊付けをし、染色の際に色が入らないようにします。
久米島紬の模様は、「手括り(てくくり)」と呼ばれる技法で作られます。
職人が一本一本の糸を手で括り、染め分けることで、繊細な絣模様が生まれます。
3.植物を使った染色
久米島紬の染色には、島に自生する植物が使用されます。
例えば、テカチ(車輪梅)やフクギ(福木)、ユウナ(オオハマボウ)、ゲットウ(月桃)などの島に自生する植物染料を用い、独特な色合いを生み出します。
特に、テカチによる泥染は深い黒色が特徴的で、久米島紬の代表的な色として有名です。
これらの染料によって染め上げられた糸は、時間が経つほどに美しい風合いを増していきます。
4.丁寧な手織り
久米島紬は、木製の高機(たかばた)を使います。
高機とは、腰板に座って踏み木を踏んで織る手織り機のことです。
約1ヶ月ほどかけて1本の反物を織り上げます。
5. 製品仕上げ
久米島紬の染色は、染色回数がとても多く行われています。
染の段階で起きた糸の膨らみや毛羽を押さえるために付けた糊が影響して、反物は地風が固く織上がってしまいます。
そのため洗濯して糊を落とし、自然乾燥させたあと、風合いと織目を整える為にきぬた打ちを行います。
こうしてやっと光沢のある美しい布に仕上がります。
これらすべての工程が織子による手作業で行われています。
出来上がった久米島紬を見れば、この膨大な作業を行う織子さんの努力と、技術の高さ、
そして久米島紬を伝えてきた人々の歴史に感謝する気持ちが湧いてきます。
久米島紬の変遷
久米島紬の起源は15世紀後半(室町時代)に遡ります。
当時、久米島は伊敷索(チナハ)一族の統治しており、中国や東南アジア、琉球との貿易で栄えていました。
伊敷索按司が治めた伊敷索城跡をはじめ島に残る城跡からは、当時の繁栄がうかがえる遺品が数多く発見されていることからも、貿易の重要寄港地であったことがわかります。
久米島はその貿易を通じて養蚕の技術を学び、発展させていきました。
繁栄の絶頂にあった伊敷索一族でしたが、琉球の島々を統一していた琉球王朝によって滅ぼされます。
琉球王朝により久米島は仲里間切、具志川間切の2つに分けられ、それぞれの地頭代に治めさせました。
技術者も派遣させるなどして久米島紬を技術的に向上させた一方、自由な貿易はできなくなりました。
そして琉球王朝が薩摩による支配を受けると、久米島紬は貢納布とされ、人々に重い税負担が課されます。
技術的には飛躍的にのびて琉球紬として、本土でもてはやされるようになっていきます。
明治政府による廃藩置県により、琉球処分が行われた後もこの貢納布制度はしばらく続き、1903年(明治36年)にようやく廃止されました。
その後は重い税負担がなくなったことで、久米島紬は産業として最盛期を迎えます。
品質も向上し生産も伸びていきました。
しかし、戦争という歴史に翻弄され、生産は落ち込み、久米島紬は一時期途絶えてしまったそうです。
苦しい時期もありましたが、協同組合事業を興したり技術者養成などを行うことで久米島紬の再起が行われました。
数々の困難を経て、2004年(平成16年)に久米島紬は国の重要無形文化財に指定されました。
久米島紬の歴史を感じられるスポット巡り
久米島には、久米島紬が島の繁栄を窺える史跡やスポットが多く残されています。
久米島紬の歴史巡りツアーでは、島に残る様々な史跡やスポットを実際に訪れました。
その際に回った、久米島紬の歴史が感じられるスポットをご紹介します。
仲里間切蔵元跡
国指定のアーチ、県指定に登録されている貴重な石積みです。
琉球王朝時代に久米島は仲里、具志川の二つに分けられ、仲里側の役場があった場所です。
宇根の大ソテツ(喜久村家)
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1609年仲里間切の地頭代の自宅。
仲里間切時代に植えられたと考えられている樹齢250年とも言われる大きなソテツを見ることができます。
喜久村家は久米島紬をとり立てることが大切な仕事でした。
琉球王朝時代に派遣された人々を出迎え、もてなすことで久米島紬を広めていきました。
登武那覇城跡
チナハ按司の息子ガサシワカチャラに城跡。
三男でありながら民に慕われ次期の久米島の按司になるのではないかと期待されていましたが、不運の死を遂げます。
そんな彼の城跡は深い木々に覆われてしまい、誰でも簡単に見に行ける場所ではありません。
現在はおそらく登武那覇城跡の城下町だったと思われる場所に、今は登武那覇跡地公園が広がっています。
久米島の貿易が盛んだった強者どもが夢の跡を感じられる場所です。
上江洲家住宅
こちらは具志川間切の地頭代の自宅です。
現在は団体の予約のみ敷地内見学ができます。
久米島の文化的な逸品が数多く出ており、貢納布だった久米島紬も地頭代の妻は着ることを許されていたようで、
紬の端切れの見本帳が見つかっています。
比屋定バンタ
天気が良ければ久米島から渡名喜島、慶良間諸島、沖縄本島まで見渡せる展望台として、現在は観光スポットとなっていますが、
かつては重要な灯火台のあった場所と考えられています。
通信技術などがなかった時代、貿易船の姿が見えた際には、火を炊いて知らせていました。
久米島から渡名喜島、座間味島、渡嘉敷島、そして沖縄本島へとのろしをあげて知らせていたそうです。
久米島には他にもソナミ烽火台という場所もあります。
この仕事はかなり重要な仕事だったため、今でいう公務員の仕事で仲里間切の役人が行なっていたそうです。
真謝港
貿易船が寄港する港の一つでした。
300〜400人が乗船する大型船が沖に停泊し、小舟でこの真謝港に降り立ったと言われています。
久米島博物館にはこちらの真謝港に船が寄港している絵巻が展示されており、その当時の重要な寄港地であったことがわかります。
久米島紬についての知識を得たところで、久米島のあちらこちらにあるスポットを巡ると、
感慨深い気持ちになること間違いありません。
久米島を回る際はその視点を持って観光を楽しんでみてください。
久米島紬について触れられるスポット
久米島紬についてもっと知りたい!という方は、ユイマール館にぜひお越しください。
こちらでは久米島紬の展示、映像による紹介、商品販売が行われています。
さらに、久米島紬の織体験や染め体験などもできるので、実際に久米島紬に触れてみたいという方にもおすすめです。
久米島紬ユイマール館
住所:〒901-3104 沖縄県島尻郡久米島町真謝1878-1
電話: 098-985-8333
営業時間:9:00〜17:00(最終受付16:30)
定休日:元日、旧1月16日 、旧盆
入場料金:島民 無料 (入館時に身分証をご提示ください)
大人 200円/(団体)160円 小中学生 100円/(団体)80円 ※団体は15名以上。
HP:https://www.kume-tumugi.com/
Instagram:kumejimatumugi.yuima_rukan
久米島紬のこれから
いかがでしたか?
久米島紬は今も変わらず一つ一つの工程を職人さんによって一貫して生産されています。
現在は紬を使った小物やかりゆしウェア、ウェディングドレスなど現代の生活に合うようにアップデートされた商品も多数作られています。
これからもその手織りの美しさが受け継がれ、たくさんの方にその素晴らしさが知れ渡ることを願います。
皆さんも久米島紬の歴史を通して、久米島紬の魅力をより感じてもらえると幸いです。